大類浩平の感想

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セルゲイ・エイゼンシュテインの映画

セルゲイ・エイゼンシュテイン戦艦ポチョムキン』1925年 6.5/10

戦艦ポチョムキン【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

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 エイゼンシュテイン初の長編映画共産主義の喧伝映画で、もちろん共産主義はおかしいが、プロパガンダというのを留意すればそこそこ楽しめる。前半の、水兵が反乱を起こすシーンは長く感じたが、「オデッサの階段」のシーンでの、市民が殺されていく迫力と生々しさは今も人に訴える力がある。ちなみにこの階段のシーンは意外と長く、7分以上もあるが、色々と工夫がされていて飽きない。エイゼンシュテインはとりあえず『ポチョムキン』を見ておけばいいのではないか。
 ちなみに、革命=共産主義ではない。例えば1789年のフランス革命は共和主義(身分制の廃止など)の革命で、担い手もブルジョワジーが中心だったので計画経済などとはもちろん関係がない。生まれで差別されない社会が登場する発端がフランス革命だったわけだから、フランス革命が暴力を伴って行われたとしても総合的にとてもいい事だったとぼくは解釈している。
 (8/18追記)
 先日まで8点評価にしていたのだが、今思うとそんなに面白かったか?となっている。いや、オデッサの階段などの断片的なシーンは面白いのだが、主人公がいるわけではなく戦艦の水兵たちも何もしないし、長篇として鑑賞するには退屈なのは否めない。全部見る必要は無いのかもしれない。


セルゲイ・エイゼンシュテイン『イワン雷帝』1944-46年 4/10

イワン雷帝 [DVD]

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 2部構成の3時間映画で、エイゼンシュテイン最後の作品。未完。モンタージュ的な技法は影を潜め、演劇的な長いカットが多い。
 1部はスターリンが絶賛しただけあり、イワン4世を都合の良いように描くだけで奥行きがない。2部では比較的イワンを暴君のように描いているので、スターリンを激怒させて3部は完成されずスターリンの死後まで上映が禁止されたが、そこまで苛烈なソ連批判をしているとは思えない。
 ただ2部の、叔母のエフロシニヤが知能の低い自分の子供(ウラジミル)にイワンを殺すように説得するシーンがグロテスクでいい。また、終盤の宴のシーンだけカラー映像になるが、赤い服の鮮烈さとプロコフィエフの音楽があいまって目を見張った。




セルゲイ・エイゼンシュテインストライキ』1925年 3/10

ストライキ [DVD]

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 無計画にストライキをしても資本家に潰されるだけだ、という楽観的でない結末なので良いと思うが、基本的には退屈である。終盤の、子供が工場の3階から投げ落とされるなどする虐殺シーンは多少ドキドキさせられる。
 ちなみに、最後に雌牛の喉が実際にかき切られるシーンがあるが、ショックでお乳が勝手に漏れ出しているのが怖い。




セルゲイ・エイゼンシュテインアレクサンドル・ネフスキー』1938年 2/10

アレクサンドル・ネフスキー [DVD]

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 東方植民を開始していたドイツ騎士団を1242年に破ったロシアの英雄アレクサンドル・ネフスキーが主人公である。時勢柄、ドイツ騎士団ナチスドイツに重ね合わせられている。ただ1939年に独ソ不可侵条約が締結されヒトラースターリンが手を結んでからは上映は小規模になったという。
 戦闘シーンは最初は迫力を感じたが、一つ一つのバトルが長いのでだんだん飽きてしまった。
 ところで、アレクサンドル=ネフスキーはキプチャク=ハン国に進んで臣従し、反モンゴル的だった弟の追放をはじめ民衆の反モンゴル活動を弾圧するなど、モンゴル帝国に仕えていたので、英雄として持ち上げられる人物ではないと思う。これも、「昔のロシアに偉大な英雄がいた」としたいスターリンの国策である。もっとも、「英雄譚」が悪いのではない。重要なのは、その人物が英雄たる人物であるかどうかであって、アレクサンドル・ネフスキーが特別偉いと思えない、ということである。




セルゲイ・エイゼンシュテイン『十月』1928年 1.5/10

 ボリシェビキが権力を掌握した革命が描かれるが、とくに物語があるわけではない。政府施設に侵入する群衆の俯瞰のカットには迫力があったが、それくらいだった。
 実際にロシア革命を経験した人々が映画に出演しているらしいが、そういうマニアックな話は一般の人々には関係のない話に思えてならない。

2016年に読んだ本・後半

前回に引き続き、2016年に読んだ本の感想です。「作品は神聖なものだから、点数をつけては失礼」なんてことは微塵も思ってないので、点数も付けます。ただ素人の付ける点数なので本気にする必要はないです。

(採点目安)
9点台 :傑作
8点台 :面白い
7点台 :読んで損なし
6点台 :面白いところもある
5点台 :いま一つ
4点台以下 :よく分からなかった



シモーヌ・ド・ボーヴォワール『女ざかり ある女の回想』朝吹登水子・二宮フサ訳、紀伊国屋書店 9.5/10

女ざかり 上―ある女の回想

女ざかり 上―ある女の回想

 日本では1963年に刊行。女性哲学者ボーヴォワールの自伝で、二十歳ごろから第二次世界大戦が終わるまでが回想されている。
 ある日列車に乗っていると痴漢されてしまうのだが、認めたくないけどドキドキしてしまった、などの告白調の挿話に興奮した。ぼくは自分に都合の悪いこともちゃんと書く人が好きなので、フェミニズムに都合の悪い事を隠さないボーヴォワールは格好いいと思った。他には、外で読書をしていたら男がオナニーをしながら自分を見ていたとかいう話もある。
 また、フランス知識人たちの交流が多く出てくるが、ドイツ軍にパリを占領されても知識人たちは目立った抵抗はせずパリに留まり、サルトルなどは自分の演劇を上演したりしているから興味深い。彼らは本気で戦争に反対していなかったのかもしれない、とも読めるからだ。これも、自ら都合の悪いことを(図らずも?)ボーヴォワールは著述しているということだと思う。


レフ・トルストイ『クロイツェル・ソナタ米川正夫訳、岩波文庫 9.5/10

 1899年出版。序盤は女性性や結婚について遠慮のない考察が続き、例えば「婦人があらゆる公職についたり、政治に参与することを認める」男がいるが、「婦人を眺める目を依然として同じ」で、これでは奴隷制度じゃないか、と婦人解放を主張する男の偽善を指摘していて興味深い。
 そして何より、妻の浮気を疑った夫が妻に襲いかかるシーンが圧倒的に恐ろしい。殺されそうになる妻の「恐怖の表情」が「苦しいほどの快感を与えてくれた」、という夫の性的倒錯もさることながら、夫に抵抗する妻をここまで生々しく描いた作品を、漫画や映画を含めてぼくは初めて見たように思う。トラウマになるほど凄い。


ギリシア悲劇Ⅰ アイスキュロスちくま文庫 9.5/10

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

 アイスキュロスギリシアの劇作家で、紀元前525年に生まれ紀元前456年に没したといわれる。
 「オレステイア三部作」(「アガメムノン」「供養する女たち」「慈しみの女神たち」)が特に面白かった。息子に殺されそうになった母クリュタイメストラが、「地上にひざまずいて、胸の衣を裂き、乳房をさしつけ」、「この乳房、それへ縋って、お前がたびたび、眠こけながらも、歯齦に噛みしめ、たっぷりおいしい母乳を飲んだじゃないの」と息子に迫るシーンは常軌を逸していると思う。眼を瞠った。


ジェーン・オースティン『エマ』工藤政司訳、岩波文庫 9.5/10

エマ〈上〉 (岩波文庫)

エマ〈上〉 (岩波文庫)

 1814年刊行。美人だがプライドが高くおせっかいな女性エマが主人公で、年下の友人ハリエット・スミスを牧師のエルトンと結婚させるために色々と手を打つ。しかし実はエルトンはエマが好きだという三角関係で、その擦れ違いの描写に工夫があって良い。絵の才能があるエマはハリエットを座らせて絵を描き、エルトンにハリエットの良さを伝えようとする。エルトンはエマが好きなのでその絵を褒めるが、エマとハリエットは「ハリエット」の美しさを褒めていると勘違いする、というのは切ないが面白い。
 また、恋心のゾクッとするような描写もあって、ハリエットがエルトンの貼りそこねた絆創膏をずっと捨てずに持っていた、というのはかわいくもあるがグロテスクでもある。
 後半はいかにも大団円という感じで終わるが、ハリエットの振る舞いに魅力が欠けるというか、もっと自分を振り回したエマと喧嘩なり対決なりしたほうがいいと思った。
9.5/10


マーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険』上・下、西田実訳、岩波文庫 9/10

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)

 1885年発表。少年ハックが黒人のジムと一緒に筏で放浪する話で、てっきり奴隷解放を勧めるようなヒューマニズム小説なのかなと思っていたら滅茶苦茶面白かった。子どもの残酷さと大人のグロテスクさを、綺麗事なしに語りまくっているのだ。
 ただ、後半ではジムの存在感が薄くなったので、もっと活躍したほうが物語が面白くなるのにと思った(そこが時代的制約なのかもしれないが)。


シャーロット・ブロンテジェイン・エア』遠藤寿子訳、岩波文庫 9/10

ジェイン・エア 上巻 (岩波文庫 赤 232-1)

ジェイン・エア 上巻 (岩波文庫 赤 232-1)

 1847年発表。孤児のイケてない女の子(ジェイン)が主人公で、周りのイジメっ子や大人たちにショックを受けながらも成長していく。大人や因習に反抗していくジェインは痛快で、孤児院を運営する人々の偽善性もしっかり描かれている。
 終盤の、一回り以上年上で片腕が無く盲目の男ロチェスターとの結婚生活は、いいように書かれすぎているというか、実際にそういう人と結婚したらもっと大変だろう思う。それとも、大変ではないほど金持ちということなのだろうか。一般的なリアリティがなく、不満が残った。


深沢七郎『盆栽老人とその周辺』文藝春秋 8.5/10

 1973年刊行。庶民らが平和に盆栽を育てていると思いきや、日々盆栽をお金で取引しあい、お互いに意地を張り合っている。
 主人公に半ば無理やり盆栽を勧める、先輩気どりの為平という老人は、盆栽を「眺めながら飯を食べることが何よりのたのしみ」だと豪語するが、盆栽の師匠である水沼老人に「(そんな盆栽)処分するんだなア、持っていてもムダだよ」と一蹴され、顔を赤くして泣きだしそうになる所は笑ってしまう。
 また、台風が来てビニールハウスが吹き飛んでしまい落ち込んだ農家の権平さんが、仲の悪い人の車が風で川に落ちてビニールハウス以上の被害額がかかる見通しだと知って安心する、など人間の嫌な部分が淡々と書かれていて面白い。


小谷野敦『中学校のシャルパンティエ青土社 8.5/10

中学校のシャルパンティエ

中学校のシャルパンティエ

 2003年刊行。作者が慣れ親しんできたクラシック音楽などが、当時の思い出と共に紹介されている。小谷野の父親は高卒の時計職人だったなど、身近な話も載っている。
 ただ、ぼくは(小谷野が苦手だという)ロックやジャズを聞いてきており、クラシックはほぼ全く知らないので感情移入できないところもあった。ちなみに一時期「文学が好きな人間は難解なクラシックを聞かなくてはいけない」と思って慌ててブーレーズとかシェーンベルクなどを聴いてカッコつけようとしたが理解不能で挫折した。まあしかし、変に難しいを表現しているというな音楽家よりメロディメーカーのマーラーなどのほうがいい、とか、実際に生で聴かなくてもCDでいい、とかいう所はクラシックに関係なく同意できる。
 また、君が代や日本の軍歌は欧米の生命賛歌と違い「立派に死んでこい」というニュアンスがあり、これはいくさを美化し陶酔させる危険がある、という考察も面白い。
 そして音楽の話だけでなく、創作論も出てくる。作品を作るとき「「反物語」であろうとする意思は「男性的」なもの」で、「それは最終的には女性的な「物語」に敗北する」、という。確かに「反物語」を作ろうとする表現者の多くは男ばかりで、ぼくも昔はアヴァンギャルドというような、わざと物語が無いナンセンスな作品をつくったことがあるが、結局は男が男に媚を売るような女性軽視(無視)的なところがあって、そもそも今見ると面白くない(笑えない)ので反省している。よく女に媚を売らない、という人がいるが、男に媚を売ってたら意味がないと思う。まあ結局のところ、作品には「物語」は必要、という考えはぼくの中ではゆるがないと思う。


勝目梓『小説家』講談社 8.5/10

小説家 (講談社文庫)

小説家 (講談社文庫)

 2006年刊行。昭和の売れっ子作家だった勝目梓(男性、本名同じ)が書いた私小説
 若い頃に働いていた炭鉱で、仲間のSが落盤に巻き込まれて死んだのだが、Sは大事な腕時計を落盤から守ろうと咄嗟に口の中に押し込んだので、死体の口から時計のベルトが見えていた、などのエピソードが怖いけど面白い。
 また、どんな過激な作品も本名を出して創作を続けた作者の覚悟には好感が持てる。「ペンネームの陰に隠れてポルノ小説を書き、金を稼ごうという魂胆のほうが、恥ずべき卑しい心根であろう」という発言からもそれが伺える。
 ただ、作者は一貫して女が出来る度に浮気をする男で、女性の扱い酷い。作者は自分の不利になることを隠さずに発表しているのは凄いし面白いのだが、娘も居るのに父としてそれは無いんじゃないのか、と疑問に思う所もやはりある。


ハーマン・メルヴィル『白鯨』田中西二郎訳、新潮文庫 8.5/10

白鯨 (上) (新潮文庫 (メ-2-1))

白鯨 (上) (新潮文庫 (メ-2-1))

 1851年発表。鯨に取り付かれた男たちの偏執的な語り口には迫力があり、引き込まれる。乗組員が鯨を執拗に追いかけるさまは、神を畏れぬ人間の行為と重なっているが、最終的に乗組員が全員死なないということからも、作者がその行為をある意味で肯定していると読める。
 ただいかんせん当時の鯨の生態学など、瑣末で詳細な著述が登場し過ぎて冗長で、ウンザリすることもあった。


谷崎潤一郎「盲目物語」 8/10

(イメージなし)
1932年発表。織田信長の妹お市をめぐる歴史小説で、シンプルに面白い。語り部お市につかえた盲目の坊主で、人間の死や裏切りを淡々と述べていて、恐ろしくも痛快である。燃盛る城の中、女性を救出するためにおんぶしたとき、お尻が自分の体に触れるときの感触も、いやらしく伝わってきてよかった。


大江健三郎『キルプの軍団』岩波書店 8/10

キルプの軍団 (講談社文庫)

キルプの軍団 (講談社文庫)

 1988年刊行。主人公が男子高校生なので、大江の小説としては平易な言葉で読みやすかったが、前半はディケンズをめぐる考察などが冗長に感じた(というかディケンズをぼくが読んでないので、読んでからならもっと面白いのかもしれない)。
 しかし、サヨク的言説とは異なる視点からもキャラが生き生きと描かれていて、「ヒューマニストの作家であっても、かれが小説家として役に立つ資質を持っているということは、むしろ自分の生きている社会のね、差別的な感情を素直に体現している、というふうでもあるのやないか?」など、キャラクター同士の思想的な対立により小説に深みを出す手法は勉強になる。


小谷野敦『日本文化論のインチキ』幻冬舎新書 8/10

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

 2010年刊行。「日本というのは~」「日本人というのは~」という論調は学界にも氾濫しているが、冷静に考察したり資料を調べれば、日本(人)だけでなく西洋(人)にもあてはまるのだから日本だけに限定するのはおかしいということを一つ一つ論証していく。日本人論はまず疑った方がいいということだ。それだけ聞くとシンプルだが、多くの日本文化論がとりあげられては批判されるので読むのは辛抱がいる。
 一方で、過去を美化することへの批判から「ドラマが「戦前美化」をしていても、ドラマ中で軍国主義や戦争を「悪」として描かれていると凡庸な左翼には批判できない」と痛いところを突いたり、チョーサーやシェイクスピアの作品を用いて「恋愛が女によって裏切られるという話は女性蔑視だ」などの男女問題への切り込みなど、話が脇道に逸れているがそれはそれで面白い。
8/10


ジャン=ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』新潮文庫 7.5/10

孤独な散歩者の夢想(新潮文庫)

孤独な散歩者の夢想(新潮文庫)

 1782年刊行。馬車にはねられ怪我をしたら、後日自分は死んだというデマが広がっていた、などエピソードが面白い。慈善するときのジレンマも考察していて、「慈善を受けた物が、怨恨でおどしながら、その継続を要求するための何らかの名目をこさえるとき」、「もうそのときから窮屈が始まって、楽しさは消えてしまう」などと吐露している。
 その一方で、格好よく聞こえるけど本当に格好いい発言なのか分からないものもある。言いっ放しのいいところと悪いところがあるというか、この本は学問ではなくてエッセイとして楽しむべきだろう。
 ところで、ルソーが子どもの頃友達と喧嘩になった話で、棒に殴られその場に倒れたら、友達はルソーを「殺した」と思い、「抱きかかえ、抱きしめて、涙にぬれながら、泣き叫」んだらしく、これはハワード・ホークスの映画『港々に女あり』(1928年)を思い出した。
7.5/10


円地文子『朱を奪うもの』講談社文芸文庫 7.5/10

朱を奪うもの (講談社文芸文庫)

朱を奪うもの (講談社文芸文庫)

 1963年刊行。自伝的小説の三部作の第一部。(17/3/24追記)円地文子は1946年に子宮がんにより子宮を摘出している。作中では乳房切除の話も出てきて、女性としての存在価値を問うていて興味深いが、円地が実際に乳房も切除したのかは分からない。
 少女時代の回想がリアルで、子どもの世界を理想化せず残酷なところも書いていく。男友達とばかり遊んでいるので同性から嫌われる、というのも苦くていい。少女が発育していく不安が赤裸々に語られていてよかった(オナニーを匂わす描写もあった)。
 中盤以降、貧しい人を助けたいが自分は裕福な家の出身だ、という葛藤がちょくちょく出てきてそこは退屈に感じた。


森まゆみ『断髪のモダンガール―42人の大正快女伝』文藝春秋 7.5/10

断髪のモダンガール―42人の大正快女伝

断髪のモダンガール―42人の大正快女伝

 2008年刊行。長い黒髪こそ美人の条件だった当時の世の中で、断髪した女性たちの生き様を追う。早世と長生き、引っ越しと永住、奔放と奥手、出産するしない、同性or異性が好き、と多様性があり驚いた。42人分の顔写真が掲載されていて楽しめる。
 1人1人掘り下げられているとはいえないが、入門にいいと思う。


ロンゴス『ダフニスとクロエー』松平千秋訳、岩波文庫 7.5/10

ダフニスとクロエー (岩波文庫 赤 112-1)

ダフニスとクロエー (岩波文庫 赤 112-1)

 2世紀末から3世紀初め頃の古代ギリシアで書かれたとされる恋愛物語。ギリシアの恋愛観と言えば「男同士」という女性蔑視で知られるが、これは男女の恋愛を描いた珍しい作品とされている。男女の心の動きがしっかりと書かれていて驚いたが、戦争の描き方は神話的で、実際の戦争のような生々しさはないので、恋愛の細やかな描写との落差を感じた。捨て子が親と簡単に和解するのも、時代的にしょうがないだろうが不満は残った。


ジェーン・オースティン高慢と偏見』富田彬訳、岩波文庫 7.5/10

高慢と偏見〈上〉 (岩波文庫)

高慢と偏見〈上〉 (岩波文庫)

 1796-97年に執筆、1813年出版。主人公のエリザベスが、「嫌な男だ!」と思っていたダーシーを逆に意識しだし、徐々に自らの偏見に気付く、という恋愛小説。既に1800年には、クオリティの高い心理描写が書かれていることに新鮮に驚いた。ただ、オーソドックスで面白いのは確かだが、展開は予想がつくので後半は長く感じ、ワクワクするシーンに欠けた。『エマ』の方が面白い。
 ところでこれは大学の授業で聴いたが、オースティンの時代は女性が小説を書くのは恥だとされていて、自分の部屋で小説を執筆する時はすぐに原稿を隠せるように扉の蝶番をわざとサビさせて、誰かがドアを開けようとすると「キイ」と大きな音が鳴るようにしていたという。


ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』ちくま文庫 7/10

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

 「生まれ高き者は、立派に生きるか、さもなくば立派に死ぬか、このいずれかを選ばなければならない」というセリフにみるように、命を賭けることが美しいこととされていて、ニーチェナチス三島由紀夫などに影響を与えたのもうなずける。紀元前400年以上前に書かれたものが今も残っている訳だからそれだけで読む価値はあるが、神に逆らった人間は基本的に敗北するので、ワンパターンだとは思った。あと、「女が出てこないからダメ!男に興味無し!」と言うつもりはないけど、アイスキュロスの劇では(悪役だけど)眼を瞠る女キャラが出てきて面白かったからぼくはアイスキュロスの方が好みではあった。


筒井康隆ロートレック荘事件』新潮社 7/10

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

 1990年刊行。表紙に注意書きがなされている通り、メタフィクションとしてのミステリー小説なのだが、登場人物それぞれの心理が丁寧に描写されているので(娘たちがみずみずしい)、アンチ・クライマックスな展開でもガッカリせずに楽しめる。ただ、その仕掛けがすごい面白いかと言うとそうではない気もする。
 ところで、侏儒(しゅじゅ=小人)症のキャラクターが主人公なあたり、名探偵コナンを思い出した。
7/10

J.M.クッツェー『マイケル・K』くぼたのぞみ訳、岩波文庫 6.5/10

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

 1983年発表。南アフリカの内戦中、ヤギを捕まえて頭を池に沈めて殺し、なんとか解体するも、気分が悪くなってほとんど食べれない、など一般人が戦争に放り込まれた時の絶望感がにじみ出ていてよい。難民キャンプでは、「ここは刑務所じゃないぞ。キャンプだ。食いぶちは自分で稼ぐ、キャンプじゃみんなそうしているんだ」と、そこでの非人間的な生活も描写している。
 その後主人公はキャンプ地を脱走し、耕作放棄地で作物を育てる決意をするが、ここらへんは退屈に感じた。大地と向き合うことが生きること、というのは、確かにそうかもしれないが、内戦の解決には直接関係がないことなので内戦を見ないフリとしている気もする。主人公が混血、という設定が必要なのかも分からなかった。著者と同じく白人で良いのでは?


谷崎潤一郎吉野葛』 3/10

(イメージなし)
1937年発表。後南朝人形浄瑠璃の知識があると面白いのだろうが、固有名詞が分からないので難しかった。ぼくに教養がないのが悪いのだが。中心となる主題「母への恋」も、美しくまた色気のある母を持った人なら分かるのかもしれないが、そこもぼくにはピンとこなかった。ちなみにこの小説は、作者が歴史小説を書こうとして書けない、というメタ小説の先駆けとしての評価もあるらしい。


泉鏡花『春昼・春昼後刻』岩波文庫 3/10

 1906年発表。初めて泉鏡花を読んだ。『春昼』は鈴木清順の映画『陽炎座』の原作で、映画は先に見ていて、ぼくが大楠道代という女優が好きなこともあり楽しめたが、小説の方は「怪奇小説」というものなのか、人間が掴みにくくて(というか掴みにくいようにしていて)読みにくかった。泉鏡花の小説に10点中3点を付けるのはヤバいことなのかもしれないが、よく分からなかったのだからしょうがない。
 ただ、他の鏡花の作品はいずれ読んでいきたい。


久生十蘭『内地へよろしく』(河出文庫) 1/10(参考)

 実は最後まで読んでいない。友人に勧められたが面白さが全く分からなかった。この小説は太平洋戦争中に書かれた作品だが、南島に派遣された日本兵たちが雌鶏が卵を産むか産まないかでモメる、その雌鶏が銃弾で死ぬも日本兵は死なない、などの能天気ぶりである。能天気であるが、ギャグにしては笑えない。
 結局のところこれはただの、「南島に派遣される生活も和気あいあいで楽しいよ!やりがいがあるよ!」というような、戦争美化ではないのか?全部読んでないので参考ではあるが1点。面白いぞ!という反論があればもちろんどうぞ。





追記
・『ジェイン・エア』、『小説家』、『白鯨』、『ダフニスとクロエー』、『高慢と偏見』を0.5点ずつアップ(2018/01/08)

こだま『夫のちんぽが入らない』

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

 こだまさんとは1度会ったことがある。ぼくは2014年の暮れに「けつのあなカラーボーイ」というWEBサイトが主催したイベントの打ち上げに、どろりさんについて行って参加したことがあり、そこでこだまさんとお会いした。ちなみにぼくは打ち上げ会場となった居酒屋のテーブルの隅でぼく脳と喋っていたが、ぼくが彼の漫画を批判するなどして険悪なムードが立ち込めて以来絶交関係になった。また、その時てにをはさんと初めて会い軽く挨拶したが、去年てにをはさんがツイッター上で「路上で喫煙している人がいたらわざと咳き込んで通り過ぎる」と言った所にぼくが皮肉をかまして言い合いになった末ブロックされるということが起こった。てにをはさんといえば何を隠そうこだまさんのツイッターのアカウントの似顔絵を描いている人で、「ぼくだったらこだまさんの顔はこう描くのに」とその似顔絵を見るたびに少々嫉妬の感情が湧いてくるが、まあそれはいい。

 

 さて、これを言うと営業妨害なのだが、こだまさんはバレーボールをやっていたらしく背も高く色白で美人である。ぼくは先程ぼく脳に噛みついてアドレナリンが出てる最中だったので、こだまさんやたかさんが飲んでいたテーブルに勝手に座って色々と話を一方的に振ってしまったが、こだまさんは優しいのでニコニコしながら聞いてくれた。こういう人は10代20代のころはモテたんじゃないのかと思うが、『夫のちんぽが入らない』では度々自分のことを「醜い」と言っていて、それがどうもぼくにはピンとこない。たとえば客観的にこだまさんよりこだまさんの妹の方が美人だとしても、それは妹がより美人なだけであって、一般的な感覚で言うとこだまさんは美人だ。もちろん著者=小説の主人公ではないから、この小説の主人公はこだまさん本人より醜い顔をしているというキャラ設定がされているのかもしれないが、しかし中2の時にヤンキーに告白されたり、高2の時にすぐ男に声をかけられて初体験をしたり、夫に会って間もなく告白され数年後に(性的な悩みがあるのを承知で)求婚されるとは、やはりこの主人公は美人だと思う。だから、主人公が自分を「醜い」と言う度にくどく感じた。母が主人公を醜いと言ってきたことを振り返る場面があるが、それは単に子育てなどのストレスからくる意地悪に過ぎないように思う。むしろこの主人公は、自分が美人だからこそ「自分が醜いのではないか」という恐怖心にとりつかれているんじゃないか…と勘ぐってしまった。美醜の問題になると、こだまさんの筆致は一人で悩み過ぎて暗い雰囲気になってしまい、いつものこだまさんのユーモアが追いつかず笑いづらい雰囲気になってしまったように感じる。

 

 それとは対照的にこだまさんのユーモアが発揮されたのは、主人公が性生活と仕事のストレスで自暴自棄になり、出会い系で知り合った男たちと「した」箇所だと思う。特にぼくが衝撃を受けたのは「山」に対して欲情するアリハラさんで、一緒にハイキングに出かけた4回の全てで、彼はおもむろに自分の性器をチャックから引きずり出して黙々と自慰をし、絶頂に達した。後日、アリハラさんに急に会いたいと言われたので何事かと思い会うと、彼が持ってきた「きんつば」をその場で咀嚼させられ、それを口から出したものをアリハラさんが食べ、続けて自分の性器をしごきだし口内シャセイされたという。ここでさらけ出された思い出は面白いし、容赦のない筆致で尊敬した。ところで、こうやって知らない男とセックスをするのは夫を裏切る行為で不快だ、という批判を受けるのも仕方がないとは思う。セックス依存症(セックスを持ちかけられるとNOと断れない精神状態)だったとはいえ、主人公がセックスの誘いを断らなかったのは事実だから、自己責任ではある。ただ、「不貞行為があった」と妻のほうだけ責めるのはアンフェアで、なぜなら夫は風俗に通っている。夫は妻以外と性行為してもいいが妻は許さない、という心理はミソジニー(女嫌い)でおかしい。批判するなら両方批判するのが道理である。ぼくはとにかく、読者から不愉快だと言われるのを分かっていても、自分にとって都合が悪いとしても隠さずに発表したこだまさんの勇気を評価したいし、感銘を受ける。

 

 次に、こだまさんの「夫」の描き方はどうかというと、これが良い。普段のこだまさんのブログやツイートからは、こだまさんが夫のことをどう思っているのか想像しづらいのだが、この本ではこだまさんは夫のことが大好きなんだなあというのが伝わる。特にいいのが出会いの所で、大学に通うためにアパートに越してきた当日、帰り支度を始める(後の)夫に、「もう帰るの」「まだいてくれてもよかったのに」と名残惜しそうにするところに興奮した。作者からすれば夫と出会ったのは20年も前なのに、夫への思いが瑞々しく書かれていて愛おしく思えた。

 

 この本はしかし先も言った通り、ブログやツイッターでのいつものこだまさんのユーモラスな味は薄れていて、暗い過去を綴るのに精いっぱいな、息の詰まる緊張感が勝ってしまったと思う。それは、未だにこだまさんが自身が歩んできた人生について整理できていなくて(まあ無理はないが)、一歩引いて観察しているのではなく、自らの容姿を執拗に「醜い」と言ってしまうところも含めて、なんだか分からないまま自分のことを文章にしているからだと思う。もちろん、なんだか分からない状態のまま書き連ねていく自伝的な小説にも傑作はあって、たとえば島尾敏雄の『死の棘』は、実際に作者の妻が狂ってしまったのでそれを日記のように次々と記録していく小説で、これは壮絶すぎて笑える。しかし、『夫のちんぽが入らない』が壮絶すぎて笑えるという感じではない以上、小説の書き方に課題が残っていると思う。壮絶すぎて笑えるのか、それとも一歩引いて冷静な笑いにするのかなど、書く方法を選択する必要があるのではないか。人の人生を「どう笑いにするか」だなんて、我ながら酷いことを言っているが、しかし創作とはそういう残酷なものだとも思う。もちろん、こだまさんにはこれからも小説を書いてほしい。業界では、作家は3冊本を出してからが作家、らしい。例えば、主人公には「わたし」ではない、三人称小説を書いたらどうなるんだろう、という楽しみもある。また、『夫のちんぽが入らない』の続編を、長い目で見ていつか書くのでもいい。実際に『死の棘』は1960年に第1話を発表してから終わるまでに16年かかった作品である。

 

 最後に、「どうしてこだまさんは自分が本を出すのを夫に内緒にしているんだろう、言ってもいいのに」とぼくはずっと疑問だったのだが、それは夫のことを考えた上のことなのかと(精神的に少々疲れている夫にショックを与えてしまう恐れがある、ということも含めて)思った。こだまさんの夫への思いの強さを垣間見た気がする。

 

終わり

伊舎堂仁『トントングラム』

 

 

トントングラム (新鋭短歌シリーズ18)

トントングラム (新鋭短歌シリーズ18)

 

 

 

 ぼくは短歌の教養が無いし批評の仕方も知らないし作る才能も無いが、自分が共感できる短歌には「いいなあ」と思えるから、そういう楽しみ方で短歌に接すればいいと思っている。ぼくはインテリの知的ゲームにはうんざりしているので、「今までの(短歌の)常識を破った~」とか、「今まで短歌だとされなかったものをあえて短歌ということにしよう」、つまり「今まで芸術とされていなかったものこそあえて芸術なんだ」みたいな(気休めの)新しさには興味がない。いや昔はあったのだが、今ではもはや芸術自体に興味が無くなって、とくにわざとナンセンスなことを表現する現代芸術はおかしいと思っている。

 

 伊舎堂仁さんの『トントングラム』にもそういうところがあって、「あえて短歌なのに大喜利をやってる」みたいな、器用にクロスオーバーさせる頭のよさがあってそこはあまり感心できない。しかし、

 

 

自転車で小学校に来てる子としゃべる時ってなんかやだった
キレてないけどこのことを完全に笑いとばせる日までさよなら
つきとばしすごいはやさで走り去る 女子はそう、一輪車のころから

 

 

 など、ぼくにも共感できる素晴らしい首があった。大喜利のような短歌じゃなくて、こういう良い短歌をいっぱい作ってほしいと思った。面白いことをしたいなら、短歌のフォーマットに笑いを変換して笑いの純度を下げるのではなくて、最初から大喜利としてなどをして面白さを追求した方がいいに決まっている。ふつうそんなことをしてもスベる。というかスベってしまっているものもある。伊舎堂さんには短歌の才能も笑いの才能もあるが、無理にクロスオーバーさせるとどちらの良さも死んでしまうということが分かるのが『トントングラム』だと思う。伊舎堂さんは穂村弘などに影響を受けているのであろうが、そういうナンセンスじみた短歌をどう始末するか・乗り越えるかが今後の課題だと思う。いや、別にそれは個人の自由なんだけど。

 

 ちなみに『トントングラム』の表紙は ぼく脳の絵が使われているが、ぼくはぼく脳の芸術や批評家に媚びた作風が嫌いだからこれもあまり感心しない。というか、ぼく脳の絵より伊舎堂さんが『トントングラム』で描いている挿絵や、ツイッターにあげる絵の方が好きだ。伊舎堂さんは絵をかけるんだから、ぼく脳などに頼まずに、自分で表紙の絵を描いてしまえばいいのにと思った。

 

終わり

向浦宏和「魔井句崎くんに踏まれたい。」

(2016/11/4(金)発売のヤングガンガンに載っている特別読切、「魔井句崎くんに踏まれたい。」の感想)

 

 

 ラップが面白くないと成立しない漫画だからハードルが高くなっていると思うが、ちゃんラップが面白いから素直に楽しめた。そして、魔井句崎くんの、自分がインテリでハイクラスであるところを開き直った振る舞いには魅力があるし、むしろ好感が持てる。イヤなキャラは、自分のイヤなところを余す所なくさらけ出した方が面白いということがこの作品で実感できる。

 

 そんな魔井句崎に対して、主人公・須藤は「コ…コイツ… ハイクラスな家系で育ったくせにまるでゲットーに育ったラッパーの如きフロウをしやがる」(231ページ)と動揺する。しかし、本当にゲットーで育ったようなラップをしているのかはぼくは疑問に感じ、共感できなかった。ハイクラスで金に不自由のない魔井句崎が、貧民街で地面を這うように生きてきた人間のようなラップをするためには、よほどの才能か努力が必要なのではないか。本物のゲットーから出てきたラッパーからすれば、「なめんなよ」とケンカになりはしないだろうか。須藤が勝手に魔井句崎を持ちあげているように見えてしまい、こちらとしては置いてきぼりになってしまったので、魔井句崎のラップがいかにゲットーに遜色ないかの描写が必要だっただろう。その描写とは、ただ韻を踏むのが上手いとか上手くないとかのレベルの話ではないだろう。

 

 また、設定が「進学校」であるため、須藤のキャラをそこまで馬鹿なヤツに出来ないという縛りがある。本来なら須藤をもっとロークラスキャラにすることで魔井句崎と対立させた方が面白いのだが、須藤もなんだかんだ頭のいい学校に通えている。だから例えば、須藤は生まれは貧しかったが何とか這い上がって進学校に入学できた、というバックボーンを付けたほうが、ハイクラスVSロークラスという設定が鮮明になる。唐突に最後に出てきた妹のラップも面白くはあるが、ここではラップの中身の面白さよりも「ハイクラスVSロークラス」の対立を描くという「物語的な面白さ」を前に押し出した方が、読者としてはより続きが楽しみになる展開になると思う。須藤が「魔井句崎くんに踏まれた」くなっている、「コイツとラップしたくなってる」(232ページ)としたら尚更二人の対称性を強調するオチにしたほうが良かっただろう。

 

 さらに「魔井句崎くん」を連載する場合、ゆくゆくは進学校すら行けないガチの中卒ロークラスのラッパーキャラも出すべきである。インテリクラスしか出てこないラップものは井の中の蛙だと思うので。

 

 そしてもう一つ気になった所は、響子がラップに詳しいのか詳しくないのか分からないという所である。224ページでは、「魔井句崎くんがそんなこと(ラップ)するわけないじゃん」とラップを見下しているような発言をしているが、235ページでは「っていうかアンタらもラッパーに憧れてんならちゃんとフリースタイルやるなりサイファーやるなり」と専門用語を駆使している。今後連載していくには、響子はラップが好きなのか、好きなのだが好きな自分が嫌で自虐的になっているのか、などのキャラを浮き彫りにする必要がある。ぼくは作品を見るときに「女性キャラを描けているか」がかなり気になる性格なのだが(なぜなら女が好きだから)、ラップという男性が主体になりがちな世界で、女性キャラの面白さを引き出すことができたらかなりクオリティの高い作品になると思う。

 

 絵についてはぼくからは何も言えない。効果線やトーンの繊細なタッチからは作者の連載への気迫が伝わってくる。トーンを貼ってないところを数えたら229ページの1コマ目しかなく、プロの仕事に気が遠くなった。

 

 散々喋ってしまったが、「魔井句崎くんに踏まれたい。」は連載してほしい。そもそも1話で判断できる漫画ではないと思う。ヤングガンガンまだ発売中。

 

終わり