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伊舎堂仁『トントングラム』

感想

 

 

トントングラム (新鋭短歌シリーズ18)

トントングラム (新鋭短歌シリーズ18)

 

 

 

 ぼくは短歌の教養が無いし批評の仕方も知らないし作る才能も無いが、自分が共感できる短歌には「いいなあ」と思えるから、そういう楽しみ方で短歌に接すればいいと思っている。ぼくはインテリの知的ゲームにはうんざりしているので、「今までの(短歌の)常識を破った~」とか、「今まで短歌だとされなかったものをあえて短歌ということにしよう」、つまり「今まで芸術とされていなかったものこそあえて芸術なんだ」みたいな(気休めの)新しさには興味がない。いや昔はあったのだが、今ではもはや芸術自体に興味が無くなって、とくにわざとナンセンスなことを表現する現代芸術はおかしいと思っている。

 

 伊舎堂仁さんの『トントングラム』にもそういうところがあって、「あえて短歌なのに大喜利をやってる」みたいな、器用にクロスオーバーさせる頭のよさがあってそこはあまり感心できない。しかし、

 

 

自転車で小学校に来てる子としゃべる時ってなんかやだった
キレてないけどこのことを完全に笑いとばせる日までさよなら
つきとばしすごいはやさで走り去る 女子はそう、一輪車のころから

 

 

 など、ぼくにも共感できる素晴らしい首があった。大喜利のような短歌じゃなくて、こういう良い短歌をいっぱい作ってほしいと思った。面白いことをしたいなら、短歌のフォーマットに笑いを変換して笑いの純度を下げるのではなくて、最初から大喜利としてなどをして面白さを追求した方がいいに決まっている。ふつうそんなことをしてもスベる。というかスベってしまっているものもある。伊舎堂さんには短歌の才能も笑いの才能もあるが、無理にクロスオーバーさせるとどちらの良さも死んでしまうということが分かるのが『トントングラム』だと思う。伊舎堂さんは穂村弘などに影響を受けているのであろうが、そういうナンセンスじみた短歌をどう始末するか・乗り越えるかが今後の課題だと思う。いや、別にそれは個人の自由なんだけど。

 

 ちなみに『トントングラム』の表紙は ぼく脳の絵が使われているが、ぼくはぼく脳の芸術や批評家に媚びた作風が嫌いだからこれもあまり感心しない。というか、ぼく脳の絵より伊舎堂さんが『トントングラム』で描いている挿絵や、ツイッターにあげる絵の方が好きだ。伊舎堂さんは絵をかけるんだから、ぼく脳などに頼まずに、自分で表紙の絵を描いてしまえばいいのにと思った。

 

終わり