大類浩平の感想

匿名(氏名非公開)の人の議論には応じない場合があります

五つ

素人の私の感想に説得力はあるのか
 率直に言って「ない」のだが、もう少し詳しく言うと、私より読書・映画鑑賞をしている人より説得力はないが、私より読書・映画鑑賞をしていない人よりは説得力がある、というところだろう。ただまあ、私の読書量などたかがしれているので、プロの評論家の方が圧倒的に説得力があるのは当たり前である。素人の私の意見に左右されず評論家の意見を読めばいい。
 ちなみに私が参考にしている日本の評論家は小谷野敦宮崎哲弥である。


芸術作品に点数をつけていいのか
 当然、芸術作品を厳密に数値化することはできない。ゆえに人々がブログや批評サイトや通販サイトで本・映画・漫画に点数や星を付けているのは本当はおかしい。ではなぜ私も点数を付けてしまっているのかというと、①私にナルシスト的な傾向が強いから、②他の人もやっているから。①は単純で、私はどうも「自分がこれを面白いと思っていてこれをつまらないと思っている」という優劣を人に言いたくなるので、ナルシストなのだろう。②だが、私は他の人が作品に付けている点数や星に納得することが少ないため、自分でやりたくなってしまうのである。
 ちなみにプロの作家や批評家で作品を数値化した人には中上健次福田和也小谷野敦などがいる。素人の私が点数や星をつける必要はますますないのだが、まあ、やるからには自分に正直に誠実にやりたいとは思っている。


勉強する必要のあるものを勉強する
 私は歴史の勉強をしたり文学作品を読んだりして教養を身につけることは大事だと思うが、その分野の専門家は別として、勉強しなくてもいいものは勉強する必要がないと思っている。例えば私は科学史家じゃないんだから既に論破された(人文)科学の論文は基本読まないし、そもそもアカデミズムではない分野、オカルトや新興宗教、ドラッグがどうこうも別に勉強していない。人生は短いので、そこを勉強する代わりにもっと必要な教養を身につけたいと思っている。そして、自分に教養が身についてくれば、勉強しなくても事件や事物の善悪の判断ができるようになるのである。私がツイッターで、新井潤美の『パブリック・スクール』をひいて「英国貴族にとって勉強するのは恥で、時にシェイクスピアの筋書きを知らないことを誇れるのは、彼らに地位があるから」で、地位のない私が舐められないようにするためには「読むしかない」と発言したことをキム・ギニョンがスクショしていたが、上とは矛盾しない。私は勉強する必要のあるものを勉強するのであり、勉強する必要の無いものは後回しにするか、勉強しないだけである。新興宗教やドラッグを勉強しなくても教養のある大人には舐められないのだ。誤解されないように繰り返すが、冒頭で「その分野の専門家は別として」と言った。なるほど宗教学者新興宗教を勉強する必要はあるのかもしれないが、だったらその勉強は宗教学者に任せればいい、私は宗教学者ではないぞ、ということだ。


嫌煙とディテール
 私が本や映画などに感想を述べるとき、全体として面白いのか・過去の作品と比べてどうか、というかなりオーソドックスな批評家の論じ方を真似している。全体があってこそのディテールだと思うので、例えば「全体的には退屈だが、この1シーンだけ凄い面白い!」という映画があるとしても、全体的に退屈なら低評価を下す。そこで、私が漫画『歯のマンガ』の中の「嫌煙」・および作者の嫌煙発言を指摘するのはディテールに囚われていて矛盾するのではないか、と言う人がいた。が、嫌煙を指摘するのはディテールなのだろうか。私は民主主義の「議論をする」という側面はとても大事だと思う。議論を飛ばして、合法のものをなくすことをしてはならない。車の排気ガスや大気汚染や酒はそのままで煙草だけとりあえず取り締まるのはファシズムである。規模は小さいように見えるが、議論なく合法のものが禁止されれば質としてファシズムである。オリンピックを前にして煙草が規制される社会的状況を前にして、嫌煙的でしかも車社会に無頓着、という側面を批判してもいいではないか。でも、わかった。それでも嫌煙を指摘するのはディテールだとしよう。だが、私は『歯のマンガ』の面白さをディテールだけで判断したのではないし、ディテールに囚われてなどいない。「とても面白い漫画だが喫煙者を差別しているので星5中星1点です」となったらバカである。そうではなく、私にとって『歯のマンガ』はギャグにしては笑えず、ギャグでないのなら代わりに得るものがなく、歯のキャラの2人の性格も描き分けられておらず、全体としてもつまらないから低評価を下したのである。
 ところで私は、正当な手続きであれば、すなわち十分な議論が行われて排気ガス・大気汚染・酒なども平等に取り締まるのであれば煙草は将来的になくなっても仕方ないとも思っている。私は別に最初から過激なことは言っていない。


自転車無灯火のヤクザ風の男を注意するか
 私は夜に自転車を無灯火で運転している人が居ると、「ライトをつけろ」と注意する。交通事故は命に関わり、ぶつけられたほうはたまらないし、逆に無灯火の自転車が車に轢かれたらドライバーが可哀想だからである。年長だと40前後の私服の男に「ライトをつけろ」と言ったことがあるが、相手は驚いたあと舌打ちして、20メーターくらい進んでから「何だとお!?」とキレていた。しかし、遠くに行ってからキレられても私は怖くはないし滑稽に見える。
 ただ、ヤクザ風の男が無灯火でやってきても恐らく私は注意しない。これはヒヨっているかもしれないが、しかしそういう風貌の男が話が通じる人間だとは思えないのである。論争でもそうなのだが、話が通じない人間と議論をしても無駄である。それどころか、いい迷惑を被るかもしれない。腹が立つが、しかし話が通じない人に関わることに躊躇するのも人間だろう。