退場しない「母」――乗代雄介「十七八より」批判

●1 「前書き」というよりは「いいわけ」

 僕は、乗代雄介さんのことを事前に知っている。乗代さんは、何年も前から『ミックエイヴォリーのアンダーパンツ』というブログで「創作」をしていて、当時安部公房に心酔していた僕はその「全く小説じゃない小説」に感銘を受けていた。こんな文章を書いている人がいるんだ、と思うとなぜか喜びが湧いた。実は昔、乗代さんの影響で見よう見まねで小説をなんとか表現しようとして創作もどきを書いてブログにアップしたことがあるのだが、幸運にも乗代さんがコメントをしてくださり、僕の創作もどきを完全にやっつけていただいた。この瞬間、僕は小説家をめざさなくていいや、という「人生において最も重要な決断の一つ」を下すことが出来た。大袈裟に言うと、今現在、僕が漫画のことばかり考えていられることが出来るのは、乗代さんのお陰なのである。そんなわけで、乗代さんが「十七八より」で「群像新人賞を取った」と人から聞いた時、一応反射的に驚いたが、しかし考えてみれば当然だとも思った。なんだか良く分からないけど、乗代さんが作家にならないはずはないだろう、と根拠もなく確信していたからだ。僕は近くの書店で『群像』を購入した。



 ところで、僕が「十七八より」を読んで困惑したことを隠さずにはいられない。なぜならこの『群像』に書かれている小説は、非常に小説らしい小説だということだ。もちろん、僕には真似できない喩えで溢れている。老婦人の「早く治してもらわないと」における、チェーホフのような視線の運動。研ぎ澄まされているようで飛躍した文体が、何かを屹立させようとしている…。しかし、僕が言いたい誉め言葉は本当はこういうものではないのだ。「十七八より」は、僕が昔感じた『ミックエイヴォリーのアンダーパンツ』で見た小説とは何かが違うのだ。小説の素養がない僕にとって、「なにが小説たるか」なんてことは皆目分からないし、本当はどういうものを「文才」と言うのかなんてわからない。つまるところ僕の思う小説とは、「全く小説じゃない小説」のことなのだ。「十七八より」の中に引かれているように、「カフカ」であり、「カルヴィーノ」であり、「マルケス」なのだ(それぞれ全然読んではいないのだが)。もっとも、勝手に「乗代さん」というイメージをこちら側が一方的に作り上げておいて、そのイメージから外れたから困惑するだなんて、あまりにも自分勝手で失礼なのかもしれない。しかし、僕は恩を受けた乗代さんに対して、正直な気持ちを発散せずにはいられない。

 

 


 

●2 本論

 小説を読んだら、それについて感想を書く。一見、それはとても簡単な事のように思えるのだが、しかし乗代雄介さんの『十七八より』を読み終えてなかなか感想を書く気が進まないのだとしたら、きっとあなたは密かに「自分がバカだと思われるのが怖い」のかもしれない。『十七八より』の中では、「一茶」「ハック・フィン」「イタロ・カルヴィーノ」「ディオゲネスの布きれ」「サン=テグジュペリのオレンジ問題」「観阿弥」「世阿弥」『落窪物語』「ギオデン」「チェーホフ」「ヒポクラテス」「マルケス」「スタインベック」などの固有名詞が繰りだされ、読み手を挑発するが、僕はこれらについてほぼ全く何も知らないし、世阿弥の作品からこの小説のタイトルが引用されているなんてことはもちろん人に言われるまで気付かなかった。今にも、「文学史」の亡霊が呪い殺してくるようだ、「まさか君。これこれの本を読んでも無いのに、文学について語るつもりかね?」。果たして、そんな不勉強な僕が、乗代さんの『十七八より』を語っていいのだろうか。ましてや批判なんてしたら殺されるのではないか。しかし、誰に?ひょっとしたらそれは思いすごしで、誰にも僕は殺されないんじゃないか。そう納得してハンドルを切るほど、今の僕はおめでたい。もっとも、たとえ僕が本当に殺されたとしても、まさか自分の死因が殺人だったなどとは、僕の貧困な想像力では考えつかないだろうけど。



 この小説は「今後一切の文章は、それこそ一瞬に消え去る琥珀色のあめ玉をなめ続けている振りをしようという面白くもなんともない試みである」(群像9ページ)という「いいわけ」から始まっている。89ページの「受賞の言葉」でも、この小説が作者の「いいわけ」であることが丁寧に繰り返されている。しかし、どうしてこの小説が「いいわけ」でなければならないのだろう?この小説を「いいわけ」として捉える事が、小説の面白さに繋がるのだろうか?一般的に、面白いことをする前に、わざわざ自分から、今から行うのは「面白くもなんともない試み」です、と断るのは致命的なはずである。では、どうしてそのようなことを言うのか。これはおそらく、僕の少ない文学的知識で語ることを許して頂くのなら、「十七八より」は「20世紀文学の方法」を踏襲し、そこからはみ出そうとしているからだ。「20世紀文学の方法」とは、心理描写をこれでもかと執拗に書きまくり、そのためなら物語なんてあって無いようなもんでいいし、「面白くもなんともな」かろうが構わず作者が開き直ることに特徴がある。小説の中で「叔母さん」も言っている。「文学」って「退屈でしょう」、と(69ページ)。だから、作者は「退屈」な「20世紀文学」を逆手にとって、自分の試みを「面白くもなんともない」と自分から言い切ることで、20世紀文学の傲慢さをうち倒そうという決意を表しているのだと思う。なるほど、そういう決意は文学マニアや文壇には理解できるのかもしれない。しかし、文学が良く分からない僕としては、「退屈」な「20世紀文学」を超えるのなら、そんなに肩肘張って、いきなり「面白くもなんともない試みだ」なんて言わずに、もっと好き勝手に書いていけばよいのでは…、と思ってしまうのだ。僕は文学青年ではないし、批評家を真似る素養もない。「一茶」、「ハック・フィン」、「イタロ・カルヴィーノ」・・・・・・についてほとんど全く何も知らない僕に、わずかにできることといえば、この小説を「いいわけ」としてではなく、小説としてバカ正直に読むことだけである。



 この小説のテーマは、「少女」と「叔母」の「二人の関係」である、と思い切って要約する。もうちょっと野暮ったく言うと、「少女」が「叔母」と関わることで「成長」する物語だ。なぜ思いきる必要があるかと言うと、本当は文学作品とは単純に一つのテーマとしてはくくれず、そこからはみ出すものであり、それはたとえば音楽を聞いている時間だけ目の前に立ち現れるように、読んでいる時間にだけ立ち現われてはあちらへと読者を連れてゆく運動だからだ。だから、今から書くことは、本当は乗代さんにとってはどうでもいいことなのかもしれない。しかし僕はこの小説を「少女」と「叔母」の「二人の関係」である、というテーマをしぼっていくことでしか前に進めそうにない。



 この少女は、自分からどこかに行こうとはしない。学校には自分から行っているのではなく、行かなければいけないので行っているに過ぎない。習字教室には、母に「病院にでも連れて行くように」(25ページ)通わせられている。旅行で「水族館に行きたい」と少女は言うが、結局行き先の決定権を持っているのは母親であり、少女が水族館に行けるのは「無類の旅行好きで、稼ぎのすべてを家族旅行につぎこむ」(26ページ)母のおかげである。古文の先生の読み合わせの授業に出るのは、先生の方から「放課後の予定」(31ページ)を訪ねて誘ってきたからだ。家族が焼き肉店に向かうのは、「ファミリーレストラン」が「かつてあった」時代から「家に居着く猫のように」(42ページ)通い続けているためであり、単なる習慣である。「アレルギー性の鼻炎」のために通う「電車で十分ほどの大学病院」も、母が指定した病院であり、少女の提案した「徒歩十分にある医院」(75ページ)は却下されている。ところでこう見ると、ほとんどの決定権は母に依存しているが、これは後述する。



 しかし、たった一か所だけ、少女が自らの意思で向かう場所がある。それが「叔母の元」だ。最初に叔母を訪ねるシーンでは、「前傾姿勢」になりながら、「町並みを太い糸で縫いつけていくような調子でぐんぐん歩」(18ページ)いていく様が描写される。「ぜんぜん伸びてやしない」(19ページ)はずのまつ毛を抜いてもらう、という非常に些細なことが表向きの動機だが、実際は「学校でイヤなことあった」(21ページ)と叔母に悩みをそれとなく伝え、何か答えをほしがっているのである。しかし、叔母は「いいじゃないの」「クラスに佇むスキャンダラスな女の子。物憂げな洗練と、ゾンビみたいな感傷と」(21ページ)とはぐらかし、悩みに立ち入ろうとはしない。叔母の方から、なにか具体的な答えを提示することは無い。しかし、話の核心こそ入らないとはいえ、少女は「徹頭徹尾、患者」として、叔母のはぐらかした答えを聞いるうちに「感情を押さえられない場合の饒舌」になり、「なんで、泣きそう」「バカみたい」と訳も分からず気持ちは高ぶり、「毛抜きの銀色の先端」に「こぼれる寸前だった涙が命からがらそちらへ逃げていく」(22ページ)。かくして少女は「治療の一環」(22ページ)を施され、「ありがとう」(24ページ)と感謝をして、「涙の残りをぬぐいながら」(同)叔母の元を退出する。

 

 この「二人」はただの親族関係ではなく、「人どもが様々な意味で頻々と出入りしている特別病室で姪に最期の言葉を告げようという時、他の親族を冷え冷えした廊下に追いやらざるを得な」(8ページ)いような親密な関係だ。少女の中には叔母が影を落とし、少女が近ごろ「表向きは機嫌よく、閻魔が思わず顔をしかめるような荒れ舌をしまいこんで日々生きているのは、まぎれもなく叔母のせいである」(8ページ)と語り手は語る。少女の家族には「父」と「母」と「弟」がいるが、「父と母は仕事で帰りが遅いし、弟も住宅街に挟まったようなこぢんまりした塾が気に入って遅くまで自習してくることが多」いので、しばしば「叔母と夕食をともにしていた」(20ページ)という。また、「自分を特別だなんてびたいち思ってない」のは「叔母さまのおかげ」(20ページ)であり、ときたま飛び出す自分の「いささか陳腐な丁寧語の置き方」は「叔母からうけついでいるはず」(21ページ)だと少女は言い、叔母からの影響関係をうかがわせる。

 二度目の訪問も少女の意思である。叔母が「今度は何があったわけ?」(59ページ)と尋ねていることからも明らかなように、少女の訪問は単なる習慣ではない。この時少女は「誰かが小説を書いてるなんてことを打ち明けてきたら、どうする?」という「思わぬ話題」(60ページ)を口走るが、「チェーホフ」と「ヨーヌィチ」の一体どちらの言葉なのかをめぐるやりとりではぐらかされる。少女は叔母を「カッカしている」と感じるが、叔母は「してないわよ」(60ページ)「カッカしてるわけじゃないわよ」(61ページ)と二度も否定していて、むしろ「カッカ」しているのは少女の方だ。「振り返れば奴がいる」(67ページ)の元ネタが「織田裕二」だと分からなくて、「ふざけないで」と叔母に「いら立ちを隠さず」(68ページ)、「家族にだけは、私のこういう問題を持ちこまないように用心してるの」と「火がつ」(68ページ)いたように言葉を吐く。その後も叔母は「マルケス」ではぐらかして、少女を「柄にもなくもがかせ」(68ページ)ると、ついに少女は「私、処女じゃないの」(69ページ)と打ち明けるに至る。「私、処女じゃないの」という打ち明けは、本作品の中で最も明確な打ち明けであり、セックスという概念を「ルーニー選手がゴールを決める」(17ページ)と表現した少女にとってはあまりにも直接的すぎて異様だ。しかし、そんな打ち明けに対してとられる叔母の「返事」は、なんと「無い」(69ページ)。これはある意味で、究極のはぐらかしだと言えるが、その後も叔母は少女が流暢に語るに任せる。頃合いを見て「元々そこに悩みなんてなかったのよ」と叔母が指摘すると、「先程まで彼女[=少女]の身体で表現されていた疲労や落胆、反感の色はそれしきのことですでに失せ、瞳の光は鈍い落ち着きを取り戻しかけ」(70ページ)る。叔母が突拍子なく始めた「マクドナルドで九十歳のおばあちゃんに話しかけられた」(71ページ)話は、少女に「かなり強い印象」を残していて、「曲がりくねった貴重な言葉が手つかずのまま残された印象を保ち、気休めに、何かを慰めてくれる」(72ページ)ように感じる。最初に訪ねたシーンのように「涙」を流すほどではないが、今回も叔母のはぐらかしは娘にとって「治癒の一環」、カウンセリングとなった。

 少女は叔母に関わることで成長している。少女は叔母にはぐらかされることで、つまり真っ向から「対決しない対決」をしていくことで、逆説的に成長していく。なぜ成長できるのか。それは、叔母が「今の世の中」で「ほどほどに驚いている」人達や、「自分の勝ちで終わる方に向けて喋」(28ページ)るような教師とは何かが違うからだ。それは少女の母とも決定的に違う。何が違うのかと言うと、叔母がある種のフェミニストだという点である。なにをフェミニストだなんて大げさな、思われるかもしれないが、実は小説の中にも「フェミニズム」(70ページ)という単語が出てくるので、もちろんこれを作者が意識してないはずはない。フェミニストはふつう、結婚をしなかったり子供をつくらなかったりするが、それは女性が前近代まで担わされ続けてきた(ひょっとしたら今も暗黙のうちに担わされて続けている)女性の「役割」に対して、異議申し立てをするために体を張っている(と思う)。さらに、フェミニストが攻撃の対象とする女性の役割には「母性」も含まれていて、つまりそれは「母親らしさ」に反対することであり、そこから敷衍してフェミニズムの考えでは母親に母性本能が無いとされる。「母」とは、たとえば「叔母」と同じ女性でありながら全く違う。それは、母が結婚も出産もしていて、「前近代的」な日本社会の枠組みに適応しているからだ。女らしく振舞いなさい、という世間体を忠実に守り、女らしく振舞っているのだ。

 少女と母の関係はどうか。母の問いかけに対して、少女はずっと答えをはぐらかしつづけるだけだ。「英検」(48ページ)が「イーストウッド」(同)になり、「ハッポウサイ」(49ページ)が「エチオピア」になる。それはちょうど、叔母が少女にしたはぐらかしだ。それについて母親は、少女の話は「はぐらかすのが目的」(47ページ)であり、「あんたの話すことは信用」(同)できなくて「ホントいやになる」(50ページ)と切り捨てる。これは先程の少女と叔母の関係と同じく、「対決しない対決」をしているように見える。もっと正確に言うなら、叔母から教わったはぐらかしの方法を駆使して、少女は母親と「対決」し、成長していくように見える。が、話はそう簡単ではない。ここで大きな落とし穴がある。あまりにも少女が母に支配されすぎているので、「対決しない対決」では少女のあがきはすべて母に回収されてしまうからである。どんなにはぐらかした会話をしても、少女は母が指定した「電車で十分ほどの大学病院」(75ページ)に通い続けている、という事実を忘れてはいけない。母に支配された状態のままで、母の言葉をはぐらかして抵抗したところで、少女に勝ち目はあるのだろうか。

 事実、少女の母への抵抗は頁を繰るごとに減っていく。たとえば焼き肉の場面ではまだ、母が「あんた[=少女]は『やっぱりおうちがいちばんだわ』って言ったんだよ。なんて素晴らしい子なのかしらね」(44ページ)と投げかけたときは、少女は「お気の毒さま」「私はドロシーじゃない」というように、比喩を交えながら「おうちがいちばん」でないという考えを伝えて抵抗した。この考えは、少女が叔母の元から最初に帰宅するシーンにおける、「思い出すこと多く、ありとあらゆる過去の感情を拾い集めることのできそうなあの道を、できればもう通りたくないという気もする」(24ページ)という一文からもうかがえる。家に帰るのが億くうなのだ。ところが、病院の近くにある「母と一緒に入ったことがある」(82ページ)ペットショップで「三本の牧草」(83ページ)を拾ってから、処女が抱く家へのイメージは一変したように思える。少女は、「最寄駅から歩く道も、居心地の良さと鑑賞は入り混じり、人知れず浜辺を歩くときの調子で彼女は歩」(84ページ)いて帰ったという。そして、「家族にだけは、私のこういう問題を持ちこまないように」と用心していたはずの「私の問題」を母の前で開示し、「私が救われるって話、聞きたい?」(84ページ)と身の上話を始める。これは、「自分について物語ることを拒み続けた」(87ページ)叔母の姿勢と真逆である。ここではもう少女は、母親との会話をうまくはぐらかすことができない。母親がはぐらかすことを許さないのだ。母は今まで、少女の話は「はぐらかすのが目的」(47ページ)であり、「あんたの話すことは信用」(同)できなくて「ホントいやになる」(50ページ)と切り捨てていたはずなのに、実は「だいたいわかるわよ、あんたのことなんか」(84ページ)と、突然少女の理解者として立ち現れる。たとえば、母は少女が「死にそうな状態」(84ページ)になると、きまっていつも動物で立ち直るのを知っていたという。たとえば少女が習字をやめた時、「ツバメの巣」を「汚れ」としてこそげとる「師範」(25ページ)を見たときがそうだ、と母は語るが、娘は「何よ、それ」「どう立ち直ったかなんて、覚えてるはずないじゃない」(同)と困惑する。しかし、元はと言えば、娘が「ツバメの巣」を「汚れ」としてこそげとる「師範」(25ページ)を目の当たりにしてショックをうけ、いつもは「ぐだぐだいう」母親を「少女の意向を最大限に尊重」(同上)させたのがキッカケなはずである。習字は少女の意思でやめたはずなのに、なぜか少女の記憶はすっぽり抜け落ちていて、かわりに母の中から記憶が湧き出てくるのは、いったいどうしたことだろうか。理解者としての母はまだ続く。「だからさ、いったい何度そういう悩みを繰り返すわけ?高校生にもなって、何も変わらないじゃない。そんなんじゃ一生救われないよ」(85ページ)という母のセリフは衝撃的だ。なぜならそれは、少女がひっそりと抱えていた「家族にだけは、私のこういう問題を持ちこまないように」と用心していたはずの「私の問題」が、母親にはお見通しだったということだからだ。あまりにもはぐらかしが通用しない母に対して、少女は最後の抵抗として「ちょっと待って。やっぱやめた」「そっちばっかりずるいもん。あと、自信なくなっちゃった」(85ページ)と言い、「床にあったクッションを拾ってソファに転がりこみ、肘かけに足首を置いて目を閉じ」(86ページ)た。はたして、少女はなんとかギリギリのところで母をはぐらかすことに成功したのか。これは全くそうではない。少女は、まさに「この眠りに就いた日」である「二○一四年の七月二十二日」に、「母と一緒に入ったことがある」(82ページ)ペットショップで拾った「牧草」、つまり「叔母によって抜き取られたまつ毛」(86ページ)を象徴する牧草を、「母が短大時代に余らせた」キャンパスノートで作られた「我が家の家計簿」の中に、「セロハンテープで貼り付け」る(同)。この瞬間、少女の一連のはぐらかしは完全に母に回収されることになった。

 語り手は、「少女の勝ち負けはいつも母が決めてしまう。待ち受ける審判はそれ以外にあり得ないような気もするが、それをなぜ母だけが言えるのか、どうしてよりによって母が言ってしまうのかはわからない」(87ページ)と語る。しかし、なぜわからないのか。なぜわからないのに、「待ち受ける審判はそれ[=母]以外にあり得ないような気もする」と言えてしまうのか。病室で叔母が娘に交わした言葉には、「この少女が母親に似ていく」(87ページ)という一文がある。ここで宣言されているように、少女は叔母ではなく母に似ていくのだ。叔母にはもはや、少女の中に自分と同じ「はぐらかし」を見出すことが出来なかった。しかも丁寧なことに、少女が今後「叔母」になる可能性は、「弟は子供を作れない身体の女性」(73ページ)と結婚した、という一文で明確に否定されている。叔母は少女の元から、どこかへ「立ち去」(87ページ)ってしまった。恐竜博の出来事も辿ろう。「それほど大きくない恐竜は赤いエリマキを広げて毒液を噴射し、まともに喰らった叔母は、膝から崩れ落ちかけ」、叔母は「迫真の演技で姪を大いに喜ばせて」(74ページ)退場した。しかし、この恐竜博は、「家族と叔母で行った」ことを思い出そう。叔母はたしかに退場したが、母は退場せず、アトラクションの出口で待っているのだ。それはちょうど、産道をくぐりぬけるような気分に少女を浸らせるだろう。そのまま二人で手をつながないか心配してしまう。

 振り返ってみると、この小説の中には叔母の容姿を恐ろしく語る描写に溢れている。叔母は「いつも乾ききっている鼻をすす」(21ページ)り、「魔女の笑い声」(22ページ)で笑う。「手に象徴」されるように「年齢以上に老けていて」、「祖父の伴侶に見える」(23ページ)。「ガラス窓」を見ると「無意識」に「白髪をさが」し、そんな自分に気付いて「ぞっとする」(23ページ)。「年を経ていくぶん冷静になった今日の眼からも言わせてもらえば、叔母の容姿は、清潔感に疑いはないが十分に醜いものではあった」(66ページ)。一方叔母によると、少女は「私がいびつな遺伝子をしぼり取ったことを感謝してほしい」(20ページ)ほど「顔が良」く、自分の「十七歳」のころとは「同じじゃな」く、「美醜の溝はかくも深し」(65ページ)と結ぶ。「肉体から逃れ続ける姪」(63ページ)と、「絶えずやつれた姿をさらしていることになった山姥」(66ページ)。このデフォルメされた比喩からも分かるように、少女と叔母は同一化することは絶対に許されないのである。

 少女は、「たった一人の他人」(87ページ)である叔母を殺し、母と和解した。しかし、母と和解した一連の過程に不気味さを感じずにはいられない。これははたして「成長」なのか?「退化」しているのではないか?もちろん、和解が絶対に悪いという訳ではないし、母をとにかく悪者にせよ、と言いたいのではなくて、母を無条件に肯定するのが問題なのだ。重要なのは和解へのプロセスだ。この母との和解への不気味さを裏付けるように、少女の『水族館の歴史』の感想文中に、「母なる海へ無性に帰りたいという思いでうずうずしてくる」(26ページ)という一文がある。「母なる海」という、あまりにも直接的に母を表すところへ、なぜ無性に帰りたいのか。そこに葛藤はなくていいのか。もしも筆者が「保守的」な作家なら、まあ別に文句は無い(家制度の存続、産めよ増やせよの精神)。しかし、冒頭にも述べたように、自らを「面白くもなんともない試みだ」と言い切ることで「退屈な」20世紀文学を超えようとするのであれば、この問題と格闘しなくてはいけない。そうでなければこの小説は、超近代(斬新な小説)・・・のフリをした前近代(反動的な小説)だ、と読めはしないだろうか。



 もしも少女が小説の冒頭のように、「脳裡に浮かんでは消えていく叔母との会話の端々は、口に放り込んで味わいかける瞬間のあめ玉のよう」に「叔母の死後も変わらず、むしろ顕著な兆候としてあり続けて」いるように感じ、近ごろ「表向きは機嫌よく、閻魔が思わず顔をしかめるような荒れ舌をしまいこんで日々生きているのは、まぎれもなく叔母のせいである」(8ページ)と思っているとしたら、それは僕には単なる勘違いだとしか思えない。「少女」の中に生きているのは、退場しない「母」なのだから。